甘藷先生、青木昆陽ってどんな人?

みなさんは青木昆陽を知っていますか?

歴史書やネットなどでは江戸時代中期の蘭学者とあります。

蘭学とは江戸時代中期にオランダから入ってきた学問や文化・技術の総称。

後に洋学と呼び名が変わります。

青木昆陽にこの蘭学を薦めたのが江戸幕府8代将軍・徳川吉宗です。

 

では青木昆陽が「甘藷(カンショ)先生」と呼ばれているのはなぜでしょうか?

甘藷とはサツマイモのことですが、オランダとサツマイモは歴史的に見て関係はなさそうです。

学生時代に歴史で習った「享保の大飢饉」。ここにカギがあります。

どう関係しているのか、ご紹介します。

青木昆陽の生い立ち

魚屋の一人息子として生まれた青木昆陽は、家業の手伝いもせずに読書をしている子供でした。

その頃についたあだ名が「文蔵」、どれほど読書好きだったかわかりますね。

22歳のある日、両親に京都で学問をしたいと打ち明け、両親のことを気にかけながらも京都へ旅立ちます。

京都では名門私塾「古義塾」に入門。そこでは儒学と本草学を学びました。

後にここで学んだ本草学が役に立ちます。

数年後、江戸からの便りで父親が病に伏していることを知り、江戸に戻り塾を開き生計を立てながら父の看病をしていました。

京都で学んだ本草学を元にした薬を毎日父親に飲ませていましたが、その甲斐なく父は他界、後を追うように母も亡くなってしまいます。

青木昆陽は両親の死後、6年もの間喪に服しました。

 


大岡越前と徳川吉宗、そしてサツマイモとの出会い

両親の喪が明ける頃、江戸の人々の暮らしは大変でした。

そう享保の大飢饉です。

この非常事態を回避すべく町奉行だった大岡越前は青木昆陽に学問を生かし飢饉から江戸を救うことを命じたのです。

青木昆陽は凶作や飢饉について書かれている書物を読み漁りサツマイモに辿り着くのです。

蕃薯考」(ばんしょこう)というサツマイモの解説書のような物を書き上げ、それが大岡越前から徳川吉宗の手に渡りました。

今度は「薩摩芋御用掛」に任命され、サツマイモ栽培に着手します。

しかしまだ江戸でのサツマイモの栽培例はなく、青木昆陽自身も無事に収穫できるか分かりませんでした。


サツマイモのプロ、それが甘藷先生

青木昆陽は苦労の末、サツマイモの収穫に辿り着きました。

そしてこの成功を元に翌年から関東一帯でサツマイモ栽培が始まり、庶民を飢えから救ったのです。

しかし青木昆陽はここで仕事終了とはせず、もっとサツマイモを広める手段として、2年の月日を費やし栽培方法を詳しく記した「甘藷之記」を書き上げました。

庶民にも読んで欲しいと仮名混じりの文章でした。

こうして江戸のサツマイモのプロ「甘藷先生」と呼ばれるようになったのです。

 

こうして栽培が広がったサツマイモは、享保の大飢饉から50年後の天明の大飢饉の時も飢えかた人々を守り大活躍しました。


甘藷先生=青木昆陽は飢饉からの救世主

青木昆陽は幕府からの大役を果たした後も幕府に仕えました。

そして徳川吉宗に命じられて蘭学の道に進み、歴史上蘭学者としてその名を残しました。

 

死後は青木昆陽の大好きな場所だった東京の目黒にお墓が建てられました。

今でも目黒不動の社の一角にあります。

また千葉の幕張には「最初にサツマイモが根付いた場所」として、青木昆陽を「芋神さま」として敬い「昆陽神社」が建てられ、今でも存在しています。

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